CAE 引用集

2019年1月13日

川井忠彦, 有限要素法の未来像, 日本機械学会誌, 1971

「構造設計者にとって長年の夢であった構造解析および設計の自動化が有限要素法という新しい技術を足場に超大形高速電子計算機の力を借りて少しずつ実現の方向に向かっていることは注目に値しよう」
「有限要素法はもともと構造設計のための道具として開発されたものであり、したがってこれからの構造技術者はその長所を最大限に活用して従来労力の大半を費やしていた構造解析の仕事から脱却して構造設計そのものに知的エネルギを消費すべきであろう」
「われわれが注意すべきことは有限要素解はどんなに精度があがってもやはり数値解析であって、われわれはその数字を通してその背後にある物理的意味をしっかりはあくしなければならないということである。この意味において基礎微分方程式を与えられた境界条件や初期条件のもとで解く正統的な解析法は失われないものである」
「最も解析者に要求されることは、その基礎となっているエネルギ原理に対する深い知識であり、したがって固体力学の本質をよく理解している人でなければ有限要素法を正しく使いこなすことができないと思われる」

パトリック・J・ローチェ, コンピュータによる流体力学, 構造計画研究所, 1978

「流体力学の数値シミュレーションは理論流体力学よりも実験流体力学に近づいている。個々の特定の計算を実行することは、物理学的な実験の遂行によく似ている。そこでは、ちょうど実験物理学者がそうするように研究者は方程式に "スイッチを入れて" なにがおこるか観察しようと待っている」
「恐らくもっとも大切なのは、数値実験者は理論家にも実験物理学者にも実行し得ないことが可能なことである。ここでいう実験とは理論近似に対して、たとえば一定の粘性係数としたり、浮力を無視したり、プラントル数を 1 としたり、境界層近似を導入したりして現象の感度を調べ得ることである」
「数値実験には物理実験と同じような限界があることを注意しておきたい。つまり、それはある特定のパラメータの組合わせに離散的なデータを与えるにすぎない。支配する方程式の次元解析から得られるものを越える、いかなる関数関係をも与えるものではない。したがって、たとえもっとも単純な理論といえども、数値実験でその代役はできない」
「もし解が存在するとすればどの解に向かって、計算スキームが収束するのであろうか。答えは未だない。解の物理学的妥当性を確かめるには、物理的な経験、つまり実験と直観に頼らざるを得ない」
「対流と拡散のある移動方程式に対する解法の選択基準は、種々の要素による。そしてその選択は、必ずしも一刀両断に決定できなければ、間違いなく正しい選択が常に可能なのではない。試みてみなければ解らないことに読者は留意して欲しい」
「コントロール・ボリュームによる方法は、もっとも良い方法であると言いきれるほどの目立った特徴はないが、もっとも失点の少ない方法である。コントロール・ボリュームによる方法の利点は、連続体力学に対する諸法則より、むしろ巨視的な観点からの物理法則によっている」
「積分により保存形表示が云々できるような性質が重要なのであって、保存性は正確度の必要条件にはなり得ない」
「現在紹介されている多くの数値実験の結果は、概して保存性を備える方法がより精度の高い方法であることを示している」
「理由もなしに保存形表示を用いるのは、迷信を信ずるようなものである。たとえば変数係数をもつ拡散項に対して非保存形表示式の差分化は、保存形表示の差分化より正確な結果を与えることに注意して欲しい」
「正確度は解法選択上の唯一の規準ではない。全体のコスト、すなわちコンピュータ所要時間と人間の手間の時間こそ、もっとも支配的な基準となる。なお、全体のコストには、プロダクション・ランのコストと開発のコスト両方が含まれるべきで、特に後者は使用する解法の単純明快さに大きく依存する。複雑な解法は、プログラミングにもテストにも、特にデバッグにおいて単純な解法より困難さが増加する。単純な解法を選択することは混み入った境界とか、付加的な現実的な法則、たとえば化学反応などまで考慮に入れる場合に特に重要である。明らかに "最良の解法" に対する明確な選択基準など存在しない」
「反復収束あるいは打切り誤差の収束に関する決定的な判断基準は存在しない」
「科学者の社会で "芸術的手腕" の称賛と "ヴーズー教的迷信" の非難を受けるのとは、シミュレーション流体力学の分野においては、常にこの境界条件の扱い方である」
「Hamming (1962) は "第 N+1 章 科学者と技術者のための計算手段" の中で "計算の目的は、みきわめであって、数えることではない" と言っているし、また "重大な物理的洞察は、問題の機会を得たときにのみ書き上げる専門プログラマの心のうちには生じそうもない" とも言っている」
「著者は、形式的なフロー・ダイアグラムは、そんなに貴重なものとは思わない。経験からすると、フロー・ダイアグラムは、それを基礎にしてプログラムを書くよりは、むしろ報告書の作成段階でプログラムから構成するものである」

伊里正夫・藤野和健, 数値計算の常識, 1985

「「計算機が計算したのだから」(あるいは、もう少しましな表現では、「計算機で計算したのだから」) 結果は正しいであろうというような論は、いまや銀行でも通用しなくなりつつあるというのに、たとえば、有限要素法で大規模な構造物の応力計算をしてみて、あるいは、いくつかの惑星の近傍を通過する人工衛星の軌跡を、常微分方程式の数値解を何十万ステップも重ねて作り出して、その結果が「”目で見てだいたいもっともらしい” から、計算には誤りがなく、結果は信頼できる」であろうとして、実際の設計の根拠としたり、論文に発表したりするのを見ると、膚寒い思いがする。」

ジェイムズ・グリック, カオス―新しい科学をつくる, 新潮社, 1991

「中世以後の科学がおさめて来た実用的な成功のほとんどは、それまでの膨大な微積分の研究の積重ねのおかげである。そしてその研究こそ、人間をとりまく変り易い自然のありのままの姿をモデル化しようと努力してきた人間どもの、最も巧妙な創造と言っても決して過言ではあるまい。したがって科学者たちが、このような自然観をしっかり身につけ、理論と難しい計算に慣れたころには、ある一つの大切な事実を見失ってしまいがちなのだ。つまり微分方程式の大部分は、絶対に解けないものだという厳然たる事実である」
大きな渦は その勢いに力を得て
ぐるぐるまわる小さな渦を含み
その小さな渦の中には これまた
ひとまわり小さい渦がある
こうしてこれが遂には
粘度となっていくのだ
――ルイス・F・リチャードソン
「乱流とはいったい何なのだろうか? 大渦巻の中に小さい渦が含まれているように、乱流とはあらゆる規模 (スケール) を通じて起る無秩序の混乱のことだ。乱流は不安定であり非常に散逸的だが、散逸的とはエネルギーを消耗させ、抗力を生じさせるということである」
「今何かが流体を揺り動かすとしよう。すると流体には粘度というものがあるから、それによってエネルギーは消耗され、揺らすのをやめれば、流体は自然に静まってゆく。揺らすということは、低い周波数、つまり大きい波長でエネルギーを加えることだが、ここで第一に注目すべきことは、大きい波長がだんだん小さいものへと分解してゆく点だろう。まず中にもっと小さい渦を含んだ渦巻ができはじめ、そのそれぞれが流体のエネルギーをうばいながら、独特のリズムを作りだす。一九三〇年代 A・N・コルモゴロフは、このような渦の構造が、ある程度把握できるような数学上の説明を提唱したが、彼の想像によると、その全エネルギーの「カスケード」(滝) が次第に小さい規模になっていき、遂に限界に達するころには、渦はあまりにも小さくなっているので、比較的大きい粘度の影響に押しきられる、というものだった」
「人が何か複雑なものを見たとき、まず雲が今どこにあるか、暖かい空気はどこか、速度はどれだけかなどということがはっきり言えるに充分なだけたくさんの点を観察し、そのデータをできるだけ大きな機械にぶちこんで、次に何が起るかを推測しようというのが現在のやり方だ。だがそんな方法はおよそ現実とかけ離れたもんだよ」
―ファイゲンバウム
「シミュレーションというものは、現実をできるだけ多数の固まりに分けていくものだが、いくらたくさんに分けたからといって、決して充分とは言い難い。しかもコンピュータモデルは、プログラマーが勝手に選んだ、任意的な一式のルールに過ぎない」
「ジェット・タービンから心臓弁膜にいたるまで、流れならなんでもスーパーコンピュータでモデル化してしまうという、このコンピュータ・シミュレーションの時代では、自然がいかにあっけなく実験者をまごつかせてしまうものかをつい忘れてしまうことが多いのだ。……本物の物理学者なら、シミュレーションを調べるとき、どのような現実が取り残されているか、どんな意外さの可能性を避けて通っているかを考えてみる必要があろう」
「よほどナイーブな学者でない限り、完璧なモデルこそ、現実を余すところなく表すものだ、などと信じる者はよもやあるまい。そんなモデルは、対象となる現実の市と同じぐらい大きく、ディテールまで全く同じであるような地図を作ろうとするものだ。公園、道路、建物、樹木、穴ぼこなどまで一つ残らず描き、住民全員、地形全部をいちいち描写しているような地図があったとしたら、その特殊性そのものが、一般化し抽象化するという地図の目的を、打ち消してしまうことになる。そもそも地図製作者は依頼者の注文に合わせて、特色を強調するものだ。その目的はともかく、地図もモデルも世界を模倣しようとすればするほど、単純化しなくてはならないのである」

ヘンリー・ペトロスキー, 橋はなぜ落ちたのか 設計の失敗学, 朝日選書, 2001

「最新技術というのは、技術的生産物の中身と挙動について理解したものを、主に解析的・計算的な手法によって表面的になぞっただけのことが多い。こう言い切ることに疑問を抱く人は、最新技術であるという、うぬぼれとは言わないにしても自信満々の風潮の下で起こっている設計ミスを見さえすればよい」
「もし説得力ある規範例と役に立つケース・スタディーがうまく集められ、広められていけば、力学法則、経験法則、コンピュータ・モデルと同様に、それらが設計者の大事な知的道具の一部となると信じてもよいだろう」
「失敗という概念は設計プロセスの中心となるもので、失敗を避けようと考慮することではじめて、設計の成功が成しとげられる」
「成功した設計がどのように成しとげられるかだけに設計の研究を集中すると、設計プロセスの根本的な側面のいくつかが見逃されてしまうことになる」
「過去の問題への過去の解決に見られるミスについて以外、私たちは決して設計の問題点について語ることができない」
―クリストファー・アレグザンダー
「技術者たちは、設計段階ではいくぶん偏執的であるべきである。「起こりえないことが起こる」と考え想像すべきである。技術者たちは、設計の手引書やマニュアルに書かれた全要素が満たされたと知っただけで、この構造は安全で信頼できるだろうと満足したり安心してはいけない」
―レフ・ツェトリン
「私はあらゆることに注意を払い、惨事を思い浮かべようと努めている。私は、いつも恐怖に襲われる。技術者にとって、想像力と恐怖心は悲劇を避ける最良の道具の一つである」
―レフ・ツェトリン
「すべての成功する設計は何が間違うかを適切かつ完全に予測することである」
「今後起こる失敗において、ヒューマン・エラーは、新しい解析方法や材料によって可能となった高い理論値にまで工学設計の信頼性を達せられないようにする唯一の最も重要な要因であり続ける。その原因の一部は、日増しに高度化する数値的、解析テクニックの陰になって、技術にかかわる経験と判断にあまり重きが置かれないからである」
「私たちは今や構造についての非常に高度な理論と、洗練された解析ができる多目的コンピュータ・プログラムを手にしている。けれどもこうしたものは、工学設計の信頼性を高めることにはつながっていない。実際、技術上の失敗の複数の調査は、洗練された解析方法が将来の失敗を予防するものではないと結論づけてきた」
「ミスは設計のどの段階でも起こりうるが、概念設計の段階で犯される基本的なミスは一番捉えにくいものに入る。実際、こういうミスは、プロトタイプが試されるまで姿を現さないことが多いし、時に予測外の悲惨な結果をもたらすことがある。これらは、他の設計ミス以上に必ずヒューマン・エラーである」
「設計者や設計の批評者が、新しい概念が健全なものかを論じる際により多くの失敗の歴史事例を思い起こすことができればできるほど、それだけ健全で欠陥の少ない新しい構想が生まれるようになるだろう」
「過去にうまくいったからといって、新しいものの設計が成功するという保証は確かにない。成功事例を追うというロジックで動く人工知能、エキスパートシステムや他のコンピュータ設計支援が限られた範囲でしか使えない理由はここにある。設計プロセスでは、成功するためにどのようにして失敗が回避されているかを十分完全に理解することが絶対に必要である」
「新しい解析方法や新しい理論は、規模の効果による破壊につながる無知への解毒剤として長年提供されてきた。だが、古い経験の重要性を理解することなく新しい理論を応用することは破綻を招くかもしれない」
「一九世紀のランキンに劣らず古代の人々も懸念した規模の効果は、現在でもなお失敗の原因である。多分それは、数学モデルやコンピュータ・モデルに頼りすぎる設計者が、規模の効果という物理現象に対する明確で十分な理解を欠くためであり、あるいはしかるべき敬意をもってそれを取り扱わないためである。要するに彼らは、十分に実践と調和させることなく理論にしがみついているのだと思われる」
「幾何学、材料、工程といったどのような設計の変更も、新しい破壊の様態をもたらし、あるいは隠れていた破壊の様態が働くようにしてしまうかもしれない。だからどんな設計変更も、それがどれほど良好で有益に思えても、当初の設計目的を念頭に置いて分析しな おされなければならない」
「公式が導き出され適用されていくプロセスを無視した工学の教育や実践は、計算規則や自然法則を無視したそれと同じくらい欠陥がある。技術は人間の活動であり、人間の誤りやすさと人間性に左右される。技術プロセスで人間の特徴を吟味しないと、そこが最も弱い環になっていまう。根本的に間違った解析上の仮定や設計公式をたゆまずしかし無批判に適用すると、ついには設計の失敗に至ることになるだけでなく、もし解析者や設計者が失敗の原因を基本公式以外のところばかりに求めるなら、公式の不適切な使用が長引くことになる」
「コネチカット州ハートフォードの市民センターの屋根は、精巧なコンピュータ・モデルの助けで設計された野心的な空中フレームだった。その屋根は二・五エーカー (約一万平方メートル) の競技場を被うもので、一九七八年一月に屋根全体が壊れるほんの数時間前には、数千人のバスケットボール・ファンが興じていた。明らかに、氷と雪が構造に過剰な荷重をかけ、次々と圧縮材を座靴させて屋根全体が競技場に折れ込むこととなった。事故後の研究によって、コンピュータ・モデルに組み込まれていたのは骨組みである三〇フィート (約九・三メートル) の部材の限界条件に関するいくつかの基本仮定であり、その仮定はかなり過度に単純化されていたことが明らかにされた。だが、高度と称されるコンピュータ・モデルに多大な信頼が置かれてしまったため、建設中に屋根に用心すべきいくつかの撓みやぐらつきがあったといわれるのに、モデルの基本家仮定が十分批判的に再検討されることはなかった。毎日屋根がちゃんとついていることが、コンピュータ・モデルの確証であり証明であると受け取られたのは当然だった」
「どんなに無数の成功した設計がそこから導き出されたとしても、いかなる仮設も決して議論の余地なく証明されたことにはならない」
「どんな設計も、現実には設計するシステムの完全な挙動には相対的に無知な状態で行われる。……工学で未解決の問題がある限り、しばしば正しくも「未知の領域の係数」とも呼ばれている安全率なしに設計すれば、計算と予測の不十分な理論ツールしかないことになるだろう。スーパーコンピュータの登場は複雑な計算を容易にしたが、その結果はそのプログラムの基礎となる理論以上に完全なものではない。そして最も数学的に厳密な理論でさえ、その基礎であり解釈の基となる物理的理解以上に完全なものではないのだ」
「すべての設計の応用が未来の使用にかかわる問題であるというのは分かり切ったことである。かくして未来の使用と挙動を適切に予測しない設計者は、自分の設計に驚かされることになりやすい」
「設計における最初で一番不可欠なツールは判断である……工学的判断とは、概念設計の まさに最初から、研究と開発のための解析モデルや実物モデルを作り上げていく鍵となる 要素を見定めるものである。判断こそが重要なものを些末なものから選り分け、判断こそ が分析が道に迷い込むのをとどめる。技術的判断とは、コンピュータ登場以後の私たちの 時代に設計を支配するようになった無数の量的要素の中の質的要素なのである。……判断 の唯一の最も重要な源泉は、自分や他人の誤りから学ぶことである」
「失敗の歴史事例と失敗を回避しようとする戦略は、一般に場当たり的なやり方でしかなされてこなかった設計の仕事への貴重な情報源である」
「構造技術者にとって歴史は科学知識と等しく重要である」
―ビリントン
「テイ橋の悲劇からタコマ海峡橋の崩壊までの六〇年間に特徴的なように、失敗なしに解析が進歩したときに、設計者集団は機能への要求度と安全係数を引き下げようとする傾向がある」
「失敗のないことは設計が完全であることを証明しない。なぜなら、表面化していない失敗の様態が、まだ経験されていない条件によって引き出されるかもしれないからである」
「美観や設計のためのソフトな基準と一般に考えられるものに対する配慮は、強度や安定性などのハードな基準を犠牲にして優先されてはならない」
「美しさを考慮するだけでは安全な橋が保証されないのは明らかだが、構造工学上細心の解析をすると魅力のないものが出てくるわけでもない。構造と美観への考慮は単に同じ設計プロセスの別の側面であり、常に別々で両立しないとは限らない」
「経費節約という目標は、通常は安全率を下げることで達成される。「長期にわたる橋梁設計で一体何が起こったか」を問う最新の論文は、「私たちはさらにどれくらい (負荷や強度への) 安全への余裕を削れるのかを議論しているべきではなく、どれだけ (磨耗や腐食への) 安全の余裕を増加させるべきなのか論じるべきである」と警告した。これは、一世紀あるいはそれ以上はもちこたえることを期待された構造物についてのまことに賢明な助言である」
「ミスが設計の経験知的な側面とはっきり相関していることは、設計でコンピュータ・ベースのツールをどんどん使うことに対して強い警告を与える。設計や技術の他の側面でコンピュータ支援が発展しても、ミスがなくなることは望めない。この事実を否定したり、軽く扱ったり、無視すれば、工学設計の諸問題やそれに取り組むためのコンピュータ・ソフトウェアの開発に従事する人が高い意識をもっている状況に比べて、ミスが起こりやすい風潮を作るだけになる。過去の経験なしという、方法の真空の中で作られたコンピュータ支援設計というツールは、それにふさわしいミスと失敗のケース・スタディー以上のものを次の世代に与えてしまうことになるだろう」
「工学設計という人間の活動は、完全な製品を生み出す完全な科学ではない。技術は一部は技芸であり、完全な数量化とモデル化が不可能でないにせよ困難なのは、設計のこの側面である。……技術者たちは、どんな最新技術分析でも、技術的思考とか技術的判断などと様々に呼ばれてきたものから始めなければならないだけでなく、結果についての思慮深く考え抜かれた解決で解析結果を補わなければならない」
「成功は事実上リスクなしに模倣できるが、失敗についての適切な視点を組み込んだ技術的方法を適切に適用することによってのみそれを拡大することができる。技術は、事前、事後の失敗分析によって進歩し、技術の方法の中心には、現実あるいは想像上の失敗を理解することがある。解析ツールやモデルを改善するだけで、技術実践や製品の信頼性を改善することはできない。というのは、解析へのインプットと解析からのアウトプットの解釈は、科学以外の判断を含むからである。実際、より簡単に数量化できる解析モデルやツールの洗練に集中することで工学設計を改善する努力をするにしても、もし技術者たちの仮定や解釈のスキルの向上をめざす学習を犠牲としてその努力がなされるなら、現実には逆効果かもしれない」

E.S.ファーガソン, 技術屋 (エンジニア) の心眼, 平凡社, 2009

「工学 (エンジニアリング) を、最初にそして非常に適切に定義したものの一つに、一八二八年の (英国) 土木学会の憲章があり、そこでは、工学とは「自然界の主要な動力源を、人間の利用と利便のために支配する技である」と謳われている。この定義は現在でも正しいし、十分なものといえる」
「図面は正確であいまいなところのないもののように見えるけれども、その厳密さの背後には、多くの公式に則らない選択や言葉では表わせない判断、直観の働き、そしてあらゆるものの作動の仕方についての仮定が隠されている。設計者と製作者の双方を結びつける、アイデアを人工物に変える過程は、複雑で微妙なものであり、どんな場合でも、科学よりは芸術に近いといえるのではないだろうか」
「別のことではなくてある一つのことをするのに、ほとんどの場合ア・プリオリな理由はまったく存在しない。どちらもまだ実行されたことがない場合はなおさらである。「設計の科学 (デザイン・サイエンス)」の推進者たちが、設計者の判断を汎用コンピュータのプログラムに組み込むことができるとどんなに信じていようとも、技術における設計の原理や技法は、けっして完全に表現することはできない」
「設計の決定を下す際に、理想化された過程を含む計算にどの程度まで依拠できるかという決定は、広い知識に基づく判断によってなされねばならない。数学的モデルは、いつの場合も、実際の構造、プロセス、機械より単純であり、それゆえ構造解析 (実際はあらゆる工学計算) を用いるには、注意と判断力とが必要である」
「設計技術者は決定を下す際に解析的な計算に頼る。けれども、直観とか、適切さについてのセンスとか、あるいは特定の設計をしているうちにつくられる個人的な好みとかいったものに基づいてなされる決定は、その数において、技術者に言われせれば恣意的で、気まぐれで、規律のない芸術家の決定と、おそらく同程度だろう」
「コンピューター・プログラム――利用できる問題の種類はますます多くなっている――を利用する場合、設計者は小さな細かい決定をすべて、経験を積んだ設計者というよりは「巧みな工学的科学者」といったほうがはるかに近いプログラマーに委ねてしまうことになる。膨大なコンピュータ・プログラムの中にある判断や決定の要点をすべて明らかにすることは、不可能ではないとしても困難である。けれども、これらの小さな決定が、設計が成功するかどうかの死命を制することもありうる」
「設計には、その形式がどうであれ、常に仮定と判断という問題が存在する。すべての仮定を明確にすることはできない――暗黙裡の知識や言葉にはならない (そして言葉では表わせない) 判断があまりにも多すぎる――がゆえに、仮定や判断、そして決定 (大きなものも小さなものも細かいものも) を、工学的科学のみならず現実をも学んできた設計者の手に委ねるのが大切なのである。デイヴィット・ビリントンが忠告しているように、「二十世紀後半の技術者はすべからく、コンピューターをよく理解していなければならないし、設計者はすべからく、自分たちの基礎である構造物の経験に代えてコンピューターに頼ることのないようにしなければならない」」
「作業者が現場から持ち込んだ問題に対する技術者の賢明な反応が、「見に行こう」だということを早い時期に知ったのは、私にとって幸いだった。机の前に座ってその困難についての説明を聞くだけでは十分でない。その道の権威たちがどう言っているかを見るために、すぐに図面や指図書を参照することもすべきでない。同じ観点から眺めることができると思われるなら、技術者と作業者は一緒に問題の現場に直ちに出かけるべきである。現場において、そして現場においてのみ、現実の世界の複雑さ、すなわち、図面や数式が無視している要素を学ぶことができるのである」
「計算尺は、一九六〇年代までは技術者の最も重要なシンボルであったが、その後は、デジタル計算機によって旧式のものとなってしまった。一二ないしそれ以上の有効桁数をもつ最近の計算機の計算は、ほんの三桁の有効数字しかない計算尺の計算よりも精確であるが、前者のほうがはるかに正しいということはめったにない。技術の分野で利用されている多くのデータは、その性質からいって近似的なものなのである。一般的には、コンピューターの精確さと速さは、数字で表わした解の妥当性についての眼で見たときの感性を犠牲にしてもたらされたものであって、技術者たちはそうした感性を計算尺を使っての計算を学びながら養ってきたのである」
「ほとんどすべての技術者が計算尺を利用し、図式力学を用いて構造解析を実行し、どんな計算図表であれ、当面の問題を解くことができそうだと思われるものに頼っていたときには、計算を視覚的に調べる (それは正しいだろうか? 数値は合理的か?) ことの利点は、彼らが用いた図式数学の中に組み込まれていた。ディジタル・コンピューターが図式手法を時代遅れで我慢できないほど時間がかかるもののように思わせているとしても、少数の若い技術者――年老いた昔かたぎの人もそうだが――は、理解を犠牲にして速さを購ってきた場合が間々あると、みるようになってきている」
「設計の対象は、ほとんどいつの場合も「直接解析するにはあまりにも複雑すぎる」から、計算を可能にするための単純なモデルを考案する必要がある。「自動計算の利用」は、「より複雑なモデルの利用を可能に」するけれども、「証明されてもいないのに、より複雑なモデルほど実際の装置を表すと考えてはならない」」
(MIT の教職員の委員会が出した一九六一年の報告)
「工学の最先端にいる設計技術者は、数値解析に基づく決定は、自分が下す決定のうちのほんのわずかな部分でしかないことを知る。問題があたりまえのものになり、より多くの決定が数字に基づいてならされるようになると、設計技術者は、新しい、さらに難しい領域に進む。そこでもまた、工学系の学校で学んだ類の解析に基づくものは、自分の決定のほんのわずかの部分でしかないことを知る。解析の重要性をけなそうというのではない。誰もが解析を、熟練した技術者の欠くことのできない道具として認めている。しかし、解析は、典型的な設計問題――とりわけ新しい問題――の中で解を与えられなければならない懸案のすべて、あるいは大部分にさえも、答えることができないのである。いつかは数値解析が、これらの懸案のごく一部ではなく、より多くに答を与えるようになる、などということはないように思われる。懸案のうち残ったものは、特にそのために行う実験、経験 (同種あるいは類似の問題についての以前の実験によって得られた知識を応用する技)、論理的な推論、個人的な好みに基づいて決定されなければならない。経験に基づいた、われわれが直観と呼ぶ潜在意識の推論過程が大きな役割を演ずるのである」
(MIT の委員会の報告)
「解析のほうが設計よりも教えるのが容易だし、実験コースよりも整然としていることは間違いない。現実世界における技術の実践には計算できない複雑さがあるのだが、工学教育における真の「問題」は、格の高い解析的コースのほうが、そうした複雑さに対する直観的な「感じ」の啓発を促進するコースよりも優れている、と暗黙のうちに認めていることなのである」
「設計が成功するためには、いまでも、言葉では表せない専門の知識の蓄積と経験による直観的な「感触」を必要とし、技術者には、いま設計している新しい技術システムだけでなく、既存のシステムについても深い理解を身につけることが求められる」
「ジェームズ・グレイクは「カオス」という「新しい科学」の発展ついて語る中で、コンピューター・シミュレーションは「現実を可能な限り多くの塊に切り分けるのだが、いつの場合も少なすぎるし」、コンピューター・モデルはまさに、「プログラマーが選んだ一連の恣意的規則なのである」と指摘している」
「イギリスの建築家アラン・カフーンは、設計の問題の解決に科学の法則をどんなに厳密に適用しても、設計者は心の中に、望んでいる結果の構図をもっていなければならないと、説得力ある議論を展開している。「[科学] 法則は自然のなかには見出されていない」と彼は主張する。「法則は人間の心がつくったものである。法則はモデルであって、それが有効なのは、出来事によって誤りであることが示されない限りにおいてなのである」」
「今日、解析者の側には残念な傾向が見られる。それは、事故は不完全な解析の結果であり、設計者が利用できるより新しい手法によって将来の同様な事故は防げると考えていることである。『サイエンス』誌は、ウェスト・ヴァージニア州グリーン・バンクで起きた、製作後二七年をへた直径三〇〇フィートの電波望遠鏡の崩壊について、現在設計されたものであればこのような事故は起こりえないだろうとほのめかした。……「コンピューター処理による応力解析は、現在製作されている望遠鏡の潜在的な破壊箇所を明らかにするであろうが、こうした手法は装置の製作時の一九六二年には利用することができなかった」。何年か後、「コンピューター処理による応力解析」で設計された今日の構造物の崩壊について、どんなひとりよがりのあと知恵によるうまい説明が与えられるのだろうか」
「計算尺や機械式計算機を使っての立体骨組の設計は、ほとんどすべての技術者にとって、非常に多くの不確実さを伴う骨の折れる仕事であり、そのため、コンピューター・プログラムが利用できるようになるまでは、立体骨組構造物はほとんど建造されなかった。しかしながら、コンピューター・モデルを利用すると、解析は素早くできる。コンピューターの見かけの精度――有効数字六桁以上――は、技術者に「結果として出てくる数字への不当な信頼感」を起こさせることができる、とペトロスキーは言う」
「考えられている構造物のコンピューター・モデルを誰がつくるかは、当座の関心ではすまされない。そのモデルが商業的に利用できる解析プログラムに組み込まれると、プログラムを利用する設計者には、プログラマーによってなされたすべての仮定を簡単に探し出す術はない。したがって、設計者はプログラムの結果を信頼して受け入れるか、さもなければ、プログラマーが危険な仮定をしたり決定的な要素を省いたりしてはいないこと、そして、設計者自身の独特の課題の微妙さがプログラムに十分に反映されていることに納得がいくまで、プログラムの結果を細かく――実験的、図解的、そして数値的に――検証しなければならない」
「構造解析および細部にまでわたるプログラムは複雑なため、専門家は全体として、数人の人が作ったプログラムを利用することになる。その人たちは構造「解析者」の部類に属し……構造「設計者」ではない。総体的に言えば、彼らの設計と建設現場での経験および経歴は限られたものになりがちだろう。このような人の作ったものが有能な設計者の経験や直観を表現することを保証するメカニズムなど、想像するのも困難である……以前にもまして、専門家と教員にとっての努力すべき目標は、コンピューター支援による解析および設計の結果に立ち向かい、拒否し、修正することのできる設計者を養成することである」
(ペトロスキーによるカナダの構造技術者の言葉の引用)
「コンピューターに立ち向かうことのできる技術者とは、ソフトウェアには多くの仮定が組み込まれていて、それは利用者には容易に見出すことができないが、結果の妥当性に影響を及ぼすことを理解している人たちである。どんな複雑なコンピューター・プログラムにも無数の疑問点が含まれている。コンピューター支援設計がうまくいくためには、用心深さと、成功を収めている設計者が設計上の決定的な決断を下すときに依存するのと同様の、視覚的な知識と適合性に対する直観的な感覚が必要である」
「設計者の誤りよりもオペレーターの誤りが災難の原因だと考えられているかぎり、判断の致命的な誤りは避けられない。設計の過程での驕りと常識の欠如は、機械のほうがオペレーターに、困惑させるような複雑な仕事を要求するという状況をつくり出す。システムの中に人間の能力と限界を組み込むことが必要なのであって、排除してはならないのである」
「科学や数学の解析の道具はまず間違いなく必要ではあるけれど、より重要なことは健全な判断と適合性や妥当性に対する直観的な感覚を、学生と新参の技術者の中に育ませることである」
「設計の「科学」がどんなに推進されたとしても、不確実な世界の中の現実のものの設計が成功したなら、それはどんな場合も科学よりもむしろ技に基づいたものであろう。数量化できない判断と選択は、設計が現実のものとなる道筋を決める要素なのである。工学分野における設計とは、まったくもってそうした類の過程である。これまでもそうだったし、常にそうありつづけるだろう」

H. K. Versteeg and W. Malalasekera, 数値流体力学 [第 2 版], 森北出版, 2011

「数値流体力学を用いた解析は、実際の系を現実的に近似する一連の値を (うまくいくように) 創造することである。数値流体力学の利点の一つは、結果の詳細さの度合いをほぼ無制限に選択できることである。しかし、C.Hastings は情報技術 (information technology, IT) が発達する前の 1955 年に、"数値計算の目的は洞察することであり、数字がすべてではない" という言葉を残している。この言葉の背景には、警告の意味が込められている。あらゆる数値流体力学による主な成果は、系の振舞いの理解を向上させることであるということを認識すべきである。」
「数値流体力学をうまく使いこなすために重要な要素は、経験と、流体の流れの物理や数値アルゴリズムの基礎を深く理解することである。」

梶島岳夫, 乱流の数値シミュレーション 改訂版, 養賢堂, 2014

「ときどき、計算することを解析すると表現する技術者に出会うことがある。しかし、計算そのものは作業にすぎない。むしろ、(計算という手段を選択すべきかどうかを決定する段階も含めて) 計算に取りかかる前の「対象の解析」と、データを得た後の「結果の解析」が技術者・研究者が行うべき本来の解析である。万能の計算方法は存在しないので、解析目的や計算機環境によって最適な手段は異なるはずである。対象を徹底的に検討した結果、当面の課題が解決されたから、計算する必要がなくなったという状態が理想なのである。」
(まえがき)